昭和57年6月10日 朝のご理解
御理解第8節
子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。
昨日、お道の新聞を読んでもらっておりましたら、こういう記事が載っておりました。三代金光様の、まあ、お若い時ではなかったでしょうかね。あるご信者が、熱心に信心をするけれども、お商売をなさ、商売が繁盛しない。いよいよ行き詰まってしまって、んー、教会長と共に、金光様の、ご神意を伺おうというので、お参りをされた。ね、そして、何をしてもいかんから、もう、金光様がおっしゃるなら、お道の教師にでもなろうと決心してお参りをしたというのです。ところが金光様が、まっそう新聞に書いてありますのに、それこそ語気も荒々しくおっしゃったということです。「大切なものを大切にしないから」、ね、「お金からでも大切にされんのです」とおっしゃったそうです。ね、いわば、んなら道の教師にでもなられたらいいでしょうとおっしゃらなかったんです。
大切なものを大切にしないから、大切なものからまた大切にされんのだと。そこで、まっいろいろ考えられて、第一に気づかれたことが、ね、本当に親を大切にしてないことに気がついた、というのです。それから、本気で、ね、まっ親孝行なさったということでございましょう。おかげで商売が立ち行くようになったという、記事が載ってました。
教祖金光大神様が、んー、祈念詞の中にもありますように、世の様々な難儀にい出会い給うた。ねえ、そこを実意丁寧神信心を持って、神様に接近されることになり、神様にいよいよ、近づかれることになり、ね、教祖金光大神と天地金乃神様の中に、あいよかけよの生活始まるというところがありますね。神様と金光大神の中に、いわゆるあいよかけよの生活が始まる。私は、親子の間は、自分な、いっぱしの親孝行がでけとると思うても、その親と通わなかったら、あいよかけよにならなかったら、交流してなかったら、それはまだ本当なもんじゃないですよね。私は、親を大切にしとると、親孝行しよると言うても、親にそれが交流、通わなかったら、ね、通うところから、あいよかけよの生活が始まったと、まっ祈念詞にはございますね。
昨夜は、私の家内の父の帰幽日でしたから、まっ家内がいろいろと、嫁達も協力して、えー、いろいろ、生前、父が好きであったといったようなものを、お饅頭を作ったり、これはもう必ずです、あの、ビワのお供えをたくさんさせて頂きましたりしてね。昨日は、あー、中島先生が、泰郎君が、あー、ちょうど、んー、当番でしたから、泰郎先生が、あー、芯になって、まっお祭を仕えてもらいました。んー、各夫婦で玉串を上げさせて頂いて、子供たちもみんなあげて、えー、お礼を申さ、もう本当に、何というでしょうかね、まあ、私( ? )家内の父ですけども、孫達、またはひ孫達がみんな玉串をあげます。大変なまっ喜びを、現わして見せてくれましたが。お知らせに頂きましたことの中に、一本のろうそくがこうある。ね、そのろうそくに火を灯したようなものじゃ、というお知らせを頂きました。
これは、ね、お互いが、それこそあの世は暗黒と言われるその暗黒に、んなら生前の徳を持って光、光に満ちたというか、光を持っておる御霊ってそうざらにあるもんじゃありませんよね。お徳を受けておるという御霊は。ですから、ね、おろうそくは持っておるのですけども、結局、遺族の者達が、子が孫達が、それに点、火を点ずる役は子供である、と私は思うですね。皆さんどうでも一つ、あの、皆さんも、お先祖を大切にしておられますでしょう、また親を大切にしておりますでしょう。けれども、先祖と交流しない。親とあいよかけよの働き、交流になっていないならば、まだまだ親に対する思いが足りてないんだということをね、私は悟らなければいけないと思う。本当に、その一本のろうそくに火を点ずるほどしの、言うなら働きになっていない。親との間に、いわゆる、あいよかけよの生活始まるということになっていない。
ね、金光様は、それこそ、まあ普通で言うならば、もう難儀をしても、できませんので、ね、金光様のお言葉次第ではお道の教師にでもお取り立て頂きたいというような、願いのもとに参られた、ご信者に、ね、金光様の先生になりさえすりゃよかっちいうこっちゃない。特に、金光様のなら先生にでもなる者は、大切なものを大切にできれる人でなければ、お道の教師なんか勤まりません、とまあ、おっしゃりはしなかったけどそういう、金光様のお心じゃなかっただろうか。大切なものをせんか、大切にせんからと。そこで、まっ分からせてもらったというか、悟らせてもらったのは、ね、本当に親を大切にしていなかったことに気づかれたというのである。そこから、本気での親を大切にする生き方がでけられたところから、ね、お商売が繁盛するようになったという。それこそ、ね、いわば、あいよかけよの働きがそこに、始まったということになるのじゃないでしょうかね。親と子のあいよかけよの、ね、生活が始まることは、そういう、ただ形だけのことじゃない、一心である、思いである。
ね、子供をもって合点せよと。と、おっしゃるように、親が子供がかわいいと思うけども、言うことを聞かなかったり、または、くずの子であったりすれば、ね、親の情はいよいよ募るばかりだけれども、どうにも、親の情だけが募ったんではしようがない。そこで、言うならば、信心によって分からせてもらうということは、ね、その親神様の、または親の心を分かって、心をたいし、心にそい奉る生き方から、ね、親子の交流、天地の親神様と金光大神の中に、ね、あいよかけよの生活が始まった。
そういうことになったのも、世の様々な難儀にい出会う、たまわる、た、い出会われるたびに、その思いを強うなられた。いよいよ、神様の思いにそい奉られることになった。そこから、あいよかけよの生活が始まったとありますように。ね、神様と私どもとの間に、ね、ただ神様、または親は子供がかわいい、(?)子供を持って合点すりゃ、そこまでじゃなくてですね。そんなら、その親に対する子供の思いもまた募ってこなければいけない。大切なものを、親ほど大切なものはない。その親をおろそかにしたり、大切にしなかったとするならば、親子の交流はありえない、と私は思います。
年に一回ですよね、帰幽日ですから。その帰幽日に、朝から思いを込めてあれこれと、まっこれは家内がいよいよ心を使っておる。嫁達も一緒に協力して、いろいろ、おかげを頂いてくれましてから、ただ、玉串をもって、神様、御霊と交流するのですけれども、その交流の具合というものが、ね、親を喜ばせるだけではなくて、親との交流。言うならば、ろうそくに火を点じたような、おかげにもなってくる。
私どもが、もう一遍、こりゃ親と、とか、というだけのことじゃありますまいね。大切にしなければならないものは、まだ他にもいろいろありましょうね。その、大切にしなければならないものを、本気で大切にするというところに、実意丁寧神信心があり、その大切にするところから、親の思いも分かり、天地の親神様の心も分からせてもらって、ね、だんだん、いよいよあいよかけよの生活が始まる。それを、あいよかけよの生活が始まる。ね、その向こうに、合楽世界があるのだと私は思いますね。どうぞ。
入力者:大坪ふく代